FPアドバイザー

FPアドバイザー

稲葉真由美

大阪本社

ライフプランの実現に向けてお互いにがんばりましょうね。

仕事で喜びを感じる瞬間を教えてください

セミナー中、受講生の頭が「うん、うん」と縦に動く時。「伝わった」と感じられる瞬間。
また自分の将来を全く考えていなかった人、あるいは諦めかけてた人が「自分にもできるかも」と希望を持ち、明確な目標を受講生自身が創り、半歩でも前進する決意を感じた時。

娘とクライアントという大切な存在が私を強くした

子供時代に甘やかされて育った私がなぜ強くなれたのか。私、稲葉真由美でないとダメと言ってくれる存在がこの世界に居てくれるからなんです。幼い頃の我が娘2人が最たるものです。夫もきっとそうだろうし、そんなふうに言ってくれるクライアントの方もいてくれて… もっと多くの人にそう言って頼ってもらえるような私であり続けたいです。そうすれば、私はもっともっと強くなれるし、その力でクライアントの皆さんに寄り添って、どんな嵐の中でもしっかり守って導いて行けると信じています。

略歴

甲南女子大学卒。同年三井信託銀行に入行。

新入社員自己紹介に愛読書はJJ(当時の女性雑誌)と書いて同期に驚かれた(実は呆れられてた?)。信託業務と店頭業務に従事。

ノルマなどはなかったが目標数値はあり、持ち前の柔らかさと周りに恵まれ、なぜかいつも目標達成。お給料は一般OLよりも高く、花のOL時代を謳歌。今にして思えば、大金融機関という金バッジに守られて社会人スタートを切ったのである。結婚を機に退職し、専業主婦に。

1992年 夫の転職に伴い社会復帰を決意。フコク生命保険入社。入社当時5歳と2歳だった二人の子供を抱えながら2年2カ月従事。配属になった営業所で、最も短い期間で最も高い階級まで登り詰め、伝説の人に?!になる。何となく入社し、何となく時間をやり過ごしてきた銀行時代とは異なり、如何に数字を挙げる(保険契約を取る)か、という明確な目的を持って主婦業と仕事に奮闘する日々であった。

夕方の職域訪問のあいだ、幼い子供を寒空であろうが豪雨であろうが炎天下であろうが外に待たせ、時には泣き叫ぶ子供を一人家に残し、心の中で詫びながらもそれでも仕事をやり続けたのは、正に「生きる」ためであった。この時代に「生きる」厳しさを芯から味わう。

1994年 当時会計事務所に席を置く夫と共に、保険代理店を開設。

まだフコク在籍中だったある日の夜のこと、独身の男性に渡す提案書の内容を考えていた私に

「なんで独身の人にそんなデカイ保険いるん?」

という夫の一言で、私が必死でやってきたことは、単なる物売りだったということに気づかされる。保険会社の営業マンは、保険が不必要な人にも手土産や粗品、カレンダーなど手を変え品を変え入らざるを得ない状況を作って契約を挙げてくるのである。

「あなたには保険は不要です」とアドバイスしてやりたい。

だけど保険会社からお給料をもらっている以上、契約に結び付かない行為は許されないのである。

ならば独立。真のアドバイスができる機関の設立を目指した夫と二人で作ったのが、この会社で、今の財コンサルティングの源である。

かなりのお給料をもらっていた保険会社(当時お給料は手渡しで、時には給料袋が立つぐらい)をきっぱりやめるのは、かなりの勇気がいったが、それでも私を突き動かしたのは、やっぱりやりがいだったと思う。

4人兄弟の末っ子で育ち、かつ一つ違いの姉に比べ圧倒的に食の細かった私は、とても大事に(わがままに?)育てられたと思う。そんな私でも、夫の「金融を変えたい!普通の人は金融機関の餌食、自分の金は自分で守れ、そのためにはアドバイザーが必要となる」この想いに私は魅せられたのである。

今まで大金融機関の金バッジの下営業できてきた人間が、全く何の支えも援護の無い中で、夫と二人で金融という大海原に船をこぎ始めたのである。今振り返れば苦労もあったが、ほんとうの仕事人として1歩を踏み出すことができた、貴重な時代である。私の原点の全てはここにあり。

1999年 株式会社財コンサルティングの前身となる、株式会社保険活用クリニックを設立

時代の移り変わりとともに、お金を殖やしたい!という顧客のニーズに応えるべく、資産運用についてのアドバイスを手掛ける。現在マネースクールのインストラクターとしてセミナー講師および個別相談を担当。

2003年 株式会社保険活用クリニックから株式会社財コンサルティングへ社名変更。


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